みさきフットボールクラブの沿革

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みさきFCの沿革

 

みさきFCは、熱心な指導者、顧問、世話人などの自主運営のもと成り立っている、非営利な地域型サッカークラブです。
みさきFCの沿革について、ご存知の方や修正を見つけられた方は、みさきFC問い合わせ用 : misaki_fc_kobe@yahoo.co.jp までお願いします。
みさきFCのOBに皆様方、是非、このホームページを見られましたら、覚えている範囲で結構ですので、広報まで、メールを宜しくお願いいたします。
少しずつ立派な沿革史が出来ることを願ってやみません。

子供好き山崎監督によって発足しました
「みさきFC」の歴史は、1977年ごろにさかのぼるといわれています。(監督がおっしゃっていました。)ただし、昔からの詳細は監督がすべて体験されたのですが、何年のいつにどんな試合でどうなったかは監督もなかなか思い出せないだろうし、当時は、ワープロもパソコンもなく、記録の方法もよく分からないのが現実です。
毎週、毎週お2人の子供(女の子2人)や奥さんとの時間をさいて、ほとんど休みなく小さい子供たちに熱心にご指導くださるだけでもありがたく、感謝の言葉では言い表されません。
自主運営の方針に基づき、このみさきFCの沿革の原稿も監督に書いていただくよりもOBの方々で作り上げるほうが正しいかも知れません。また、佐野代表、白井顧問、山内コーチも日々お忙しく、25年もさかのぼることは並大抵ではありません。
以下に、現在お聞きしていることをこの「みさきFCの沿革」の第一歩として分かっていることを大まかに記載させていただきます。かなりあいまいな内容もありますがお許しください。

 

トピックス

1974年頃 山崎監督のご自宅近くのつつじヶ丘の公園で、休みの日に散歩がてら、子供たちとよくサッカーをして遊んでいた。
野球少年だったため、あまりサッカーのことはよく分からなかったとのこと。
1975年頃 気が付けば、いつも回りは子供たちであふれていた。
近所の奥さん連中に「サッカーチームを作ってほしい」といわれたが、家内の反対かは定かではないが、「僕はこうして子供たちとボールを蹴るのが好きなだけで、サッカーのことはよく知らないので・・・」といつも断っていた。
1976年頃 土、日だけでは飽き足らず、山崎監督の職場関連からか近くの「浜山小学校」の子供たちにも仕事中?か仕事帰りに顔を出し、同じように子供たちとボール蹴りを楽しむ日々が続いた。
1977年頃 山崎監督の人柄で、気が付けば、回りはチームが出来るほど子供たちであふれていた。
近所の奥さん連中に「サッカーチームを作ってほしい」といわれたが、「僕はこうして子供たちとボールを蹴るのが好きなだけで、サッカーのことはよく知らないので・・・」と断ったが、当時の地元のつつじヶ丘の奥さん連中はとは違い、当時「浜山小学校」の強烈な押しの強い奥さん連中(今は、どうだか知らない・・・)には、いくら断ってもなかなか認めてくれず、遂に「みさきFC」が奥さんパワーのもと、のろしを上げた。
当時は、活発な子はみんな「野球」をやっており、サッカーチームを立ち上げたからといってなかなかサッカー少年は集まらず、少年野球の年齢(4年生)になり、夏になるとみんな野球にいってしまう。
冬には集まるが夏には子供達は少ないので、チームとして試合が出来ない。「やっぱり、野球か〜」と嘆いたこともあったが、どちらかといえば活発でなくおとなしいが何かを模索している不憫な子に対し「そうだ。この子達のために僕が何とかしてあげよう」とますます精力的にサッカーでの情操教育に力を入れることになる。
監督も、スリッパで豪快なシュートが打てるようになるまでサッカーの極意を習得されたのもこの時期かと思われる。
1978年頃 監督および熱心な指導者による情熱と人間性に打たれ、近所の父兄などの協力の元、メンバーも徐々に増え、チームとして1年中試合が出来るまでになってきた。
サッカー部出身者のコーチも増え、本格的な指導によるチームつくりが始まった。自主運営によるサッカーチームの骨組みができたのもこの頃です。
1978年〜

1993年頃

みさきFCの沿革は、現在調査中(メールお待ちしています)。
1993年 川淵三郎チェアマンなどの貢献により、あまりにも遅すぎたが、「Jリーグ」が発足した。
この頃のみ
さきFCの沿革は、現在調査中(メールお待ちしています)。
1993年〜

1998年頃

みさきFCの沿革は、現在調査中(メールお待ちしています)。
1998年 日本初のワールドカップ出場により、サッカーブームがさらに広がり、1999年新年会には、あの森島寛晃選手もフィアンセと一緒にみさきFCの新年会に出席した。
まだ、あまり知られていなかったので、ほとんどサインをもらっていなかった。
1998年〜

2001年頃

子供は減少気味だが、各学年共10〜15人前後のチームとなり、佐野代表とともに熱心な父兄やコーチ陣で、各大会で上位を常に狙えるようになってきた。
また、他のチームから入部する生徒も増えてきた。
2002年5月 2度目のワールドカップ日本出場ベスト16により、小学生の新1,2年生の入部が多く、ますます「みさきFC」が盛り上がってきた。
現在、小学生チームは、豊富なコーチ陣や世話人に恵まれたため、山崎監督、山内コーチは、多感な中学生を主にスポーツを通しての人間としての教育を主に力を入れている。
中学校のサッカークラブに入らず、「みさきFC」の中学部でサッカーをする生徒も増えてきている。
教育委員会事務局ワールドカップ推進室で、「みさきFC」の子供達の写真が取り上げられたのが記憶に新しい。みさきの緑のユニホームと笑顔が全国に広がった。
2006年 神戸市サッカー協会より、山崎監督が30年永年表彰を授かる。
秋には、「みさきFC創立30周年祝賀会」(神戸ウイングスタジアム内、ウルティモ)で開催。神戸のサッカー関係者ら多数出席いただき、盛況に納まる。
冬には、「みさきFC創立30周年記念大会」(フットボールパーク岩岡)で開催。6学年、5学年、4学年、女子、の各6チームで行われた。
2007年 2月には、「みさきFC創立30周年記念OB大会」(神戸三菱グランド)で開催。